Q.「哲学カフェ」ってなに?
Q.飲食店なの?
Q.どこでやってるの?
Q.どうして決まった場所でやらないの?
Q.なんで<街路>がよいの?
Q.どんなことをするの?
Q.討論をするの?
Q.つまり「対話」ってなんなの?
Q.どうして「問い」を立てるの?
Q.「問いをたてる」って、具体的にどんな感じ?
Q.「ファシリテーター」って、なに?
Q.「ファシリテーション・グラフィック」って、なに?
Q.なんで「カフェ」ってつけてるの?
Q.どうして名前で呼んじゃいけないの?
Q.なんかコツとかないの?
Q.哲学のこと知らないけど大丈夫?
Q.でも、やっぱり知ってるほうがいいんでしょ?
Q.なにかルールとかあるの?
Q.「対話」って、楽しいの?
Q.反論しちゃいけないの?
Q.なんで「波止場」なの?
★運営指針~<対話の場>の実現のために★
Q.「哲学カフェ」ってなに?
哲学カフェとは、フランスの哲学者マルク・ソーテが1992年、パリにあるカフェ・デ・ファールで、・・・という感じの説明は、既に多くの書籍や詳しい解説のサイトがあるので、是非そちらを参照を。
私たちがこの言葉を説明する際に困ったなぁ、と感じるのは、「哲学」という言葉がもっぱら、単に“学問ジャンル”を指すものとしてしか理解されていないということです。
本に書かれた「哲学者」の名前。
難しそうな表情の肖像画。
書き並べられる思想と格言。
そうした内容を理解し、論じること――。
もちろん、それが“取るに足らないもの”なのだという風には全く思っていないのですが、私たちの考える哲学は、そういうものでは全然ないです。
私たちの考える哲学。
それは、自分の「当たり前」が問い直されること。
普段「当たり前」としてきたものが、本当はどのようなものなのか、考えてみること。
そしてその作業を、自分以外の誰かとの<対話>を通じて行うということ。
つまり私達の日常を、自分たちの血が通った言葉で、<共に>考えてみること。
そういうものが、私たちが発信したい「哲学」であり、<てつがく>です。
Q.飲食店なの?
いいえ、ごめんなさい。飲食店ではありません(笑)
17、18世紀、絶対王政下のフランス。「カフェ」は、人々が身分に関わらず出入りし、コーヒーを飲み交わす場所でした。
人が一緒に居合わせてコーヒーを飲んだら…それだけでは終わりませんよね(笑)
カフェでの交流は様々な文化の爛熟を生み出し、フランス革命をもたらすきっかけとなったと言われています。
私たちが「てつがくカフェ」の名称で引き継ぎたいと思っているのは、そのように人々がそれぞれの置かれている境遇や条件に関わらずに交流できる「対等な空間」としての<カフェ>です。
なので飲食店ではないのですけれど、てつがくカフェを開催するときは、参加される方にリラックスした気分でご参加頂きたいので、なるべくコーヒーやお菓子なんかを用意するようにしております。
Q.どこでやってるの?
波止場てつがくカフェは、特定の開催場所をもっていません。
私たちは<対話>が可能と思われるスポットを、それもなるべくあまりお金のかからない、できれば無料で使える場所を、いつも探しています。
開催場疎を維持するために費用が発生してしまうと、お金を持たない人が参加できなくなってしまうからです。
富の偏在や財産の有無の違いにどのように向き合うべきなのか、何か定見があるわけではないですが、波止場てつがくカフェにおける<対話>は、財産の有無や社会的属性などに関わりなく、誰でも参加できる場でありたいと考えています。
Q.どうして決まった場所でやらないの?
ひとつはできるだけ多くの方に出会いたいからです。
場所を特定することで「常連さん」が集りやすくなるというメリットもあるかもしれませんが、私たちは突然の、その場限りでの<出会い>というものも、大変大事なことであると考えています。
それからもう一つ。
私たちは、出来れば<対話>を公民館や会議室などの「独立した空間」ではなく、人びとが自由に行き交う<街路>を感じられる場所で行いたいと考えているからです。
Q.なんで<街路>がよいの?
波止場てつがくカフェの目的は、私達の日常の「当たり前」を根源的に問い直すということを、誰かと<対話>をする中で行うことです。
そのためには、私たちが抱えている社会的役割関係をいったん解除し、日常から私たち自身の身を“引き剥がしてみる”必要があります。
ところでそれと同じことは、「場所」についてもいえるのではないでしょうか?
例えば、もちろんそうではないという方もおられるとも思いますが、私たちの社会では、「職場」と「家庭」は別の空間であるとされています。
「職場」と「家庭」だけではありません。モノは「工場」でつくられますし、教育は「学校」で行われます。買い物はデパートやスーパーで。歌はカラオケボックスでと、私たちの生活は、その目的に応じて空間を使い分けながら営まれていると思います。
つまり私たちの世界では、人の<役割>だけではなくて、場所にも<役割>があるのだと思うのです。
そして私たちの「日常」は、そのような<役割>を与えられた「場所」とともにあるわけですから、それを問うということは、いよいよ難しいことではないかと思います。
あらかじめ何らかの役割や目的が与えられていない場所。「日常」から自分の身を「引き剥がす」ことを試ることができる場所。
そう考えて思いついたのが<街路>でした。
<街路>は、単に移動のために用意された「通路」でもあるけれど、それだけではない。
人がそこに集い、または行き交い、休み、話す。時には物が売られ、あるいは祭りが通り過ぎ、揉めごとが起こる。
そこは人が「日常的に」接していながら、様々な<役割>を見出しているところではないでしょうか?
そして<街路>をそのように考えてみると、それは「道路」に限らず、広く様々なところに潜んでいるのではないかと思えてきます。
<街路>を探し出し、<対話>の空間として開いていくこと。
波止場てつがくカフェは、人の行き交う<街路>が感じられる空間での<対話>の開催を行いたいと考えます。
Q.どんなことをするの?
波止場てつがくカフェは、おおむね次のような流れで対話を進めています。
- テーマを受けての自由な意見交換
通常はその回ごとにテーマをご用意させて頂きます。 そのテーマから出発して、自分たちが「当然」「普通」と考えていることが本当にそうなのか、集まった方々と言葉を交わす中で考えます。
テーマを受けて感じたこと、連想したこと、気になったことなど、なんでも自由にお話していただければと思います。
- キーワードを選ぶ
1での対話を受けて、問いを立てるために欠かすことができないと思われるキーワードを挙げます。また、必要に応じて、キーワードと考えられる言葉の定義を確認します。
- 問いをたてる
キーワードを手がかりにしながら、私達の日常の「当たり前」を根源的に問い直すような問いを考えます。
- 問いに対応する答え」を考える
問いが立ち上がれば、自ずと答えも立ち上がるものと思います。
たったこれだけなのですが、ちょっとした事前説明と休憩をいれて、だいたい2時間30分~3時間ほどの時間を要します。
長い・・・とお感じの方もおられるかもしれません(笑)
じっくり話を聞き、丁寧に考えていくことは、なかなかに時間がかかります。
でも、気付いたらあっという間に時間が過ぎていた、ということも。
むしろ時間が全然足りなかった、ということの方が多いくらいだと感じます。
もちろん、途中で飲食をしていただいて構いません。
リラックスした気持ちで対話をお楽しみいただければと存じます。
Q.討論をするの?
てつがくカフェにおける<対話>の場は、何が正しくて何が間違っているのかということを追究する場ではありません。そういう意味では、説得力を競い合うディベートとは異なりますし、もちろん、正/不正を論じ合い、意見を戦わせるような討論とも違います。
一方、ただ各々の話したいことをそれぞれに話す、という場でもありません。
また、参加者から示される意見について何も論評してはいけないということはありません。
むしろ相手の考えを吟味し、自分の考えとの違いや関係性について話すこと。何より、自分が疑問に思ったことについて、「なぜ?」「どうして?」と問うことは、対話の“肝”であるといえます。
Q.つまり「対話」ってなんなの?
てつがくカフェでの「対話」が、他の種類の“お話し”と決定的に違うこと。それは、話の目的が<問い>を立てることに向けられている点です。
<問い>といっても、どのようなものでもよいということは出来ません。
てつがくカフェにおいて求められる<問い>とは、私達の日常の「当たり前」を根源的に問い直すような疑問のことです。
そしてそれは、それまで交わされた対話の中で熟成され、絞り出されるされるものでもあります。
「問い」を立てることで、私達の日常の風景はそれまでと全く違うものとして私たちの前に立ち現れます。
波止場てつがくカフェにおける「対話は、ただ<問い>を立てることのために行われます。
Q.どうして「問い」を立てるの?
私たちは、自分たちの周りの様々な物事、つまり「世界」を、言葉によって名付けることで理解をしています。
そして「言葉」はほとんどの場合、私たちより「前に」既に存在していて、誰に対しても「共通の」内容を意味するものとして学ばれます。
しかし、私たちの感じ方、内面世界は様々に異なります。
同じ意味をもつ言葉であるとして了解されていた言葉も、もしかしたら、実は一人ひとり、全く違う意味で理解されていた、ということもあるのではないでしょうか?
もし対話をしようとする者同士が、そうと気づかないままに違った意味でその言葉を使っていたとしたら―。
お互いの言葉がかみ合うことはありませんし、そもそも<対話>をしようとする目的と根本的にズレてしまっていることになりますね。
なので、<対話>を進めていくためには、わたしたちが「通常」理解している(とされている)言葉を一旦宙吊りにして、その意味を確認し、定義を明確にしていくことが必要です。
Q.「問い」をたてるって、具体的にどんな感じ?
「言葉」を宙吊りにした後で、改めて定義付けを行うこと。
そしてその際には「言葉」を定義付け、その意味を、もうこれ以上どのようにも逃れようがないというところまで追い込み、みじんも動くことがないようにしなくてはいけません。
言葉の意味を、細かく限定する必要があるのです。
そのためには、「問」と「答」という“問答”の形式が適しているのではないかと考えます。
例えばこんな具合に。
~~~~~~
例 リンゴは赤色であるか?
⇒答 否、リンゴは赤色とは限らず、青色の場合もある。
~~~~~~
この例の場合、問われているのは「リンゴ」という果物が「赤色」であるか、そうではないかということです。
主語は「リンゴ」であって、「赤色」は述語としてリンゴを説明するという構造です。
リンゴは赤色とは限らない、ということから、そうでない可能性があるのだと、「答」は、「問」の主語であった「リンゴ」の説明を補う働きをしています。
「なんだ、当たり前のことを」と思われるかもしれませんが、このシンプルな形を追究することが、途方も無い広がりをもつ「意味」の世界を凝固させ、その根本的な内容を確認するために必要な方法であると、私たちは考えます。
Q.「ファシリテーター」って、なに?
対話の進行は、「ファシリテーター」が執り行います。
ファシリテーターは、参加者の議論が活性化するよう働きかけるとともに、必要な場合は議論の交通整理を行いますが、何かテーマの内容について意見を述べることは普通はありませんし、ましてや「答え」を持ち合わているものでもありません。
てつがくカフェはという催しの主役は参加されている皆さんであって、参加者の対話こそがてつがくカフェの内容です。
Q.「ファシリテーション・グラフィック」って、なに?
対話を円滑に進めるために、波止場てつがくカフェでは「ファシリテーション・グラフィック」という手法を採用しています。
ファシリテーション・グラフィック――なんていうと、なんだかスゴいものを想像してしまいますが、何のことはありません、つまりは、ペンとホワイトボードのことです。
しかし侮るなかれ。
このペンとホワイとボードがあるとなしでは大違いなのです。
「ファシリテーション・グラフィック」は、様々に展開していく対話を書き留めていきます。
そして、ただ単に「書き留める」だけではなくて、それが他の参加者が発言した内容とどのような関係にあるのか、視覚的にわかりやすいように「グラフィック」化します。
Aさんの意見とBさんの意見がどのような関係にあるのか。Cさんの補足は、それらを補強するものなのか、反対の意味を示すのか。
グラフィックは対話の最中、必要に応じて参照され、対話に参加する人々の思考の手助けとなるはずです。
波止場てつがくカフェの対話においては、もちろん発言された内容によって対話の進んでいく方向が舵取られていくわけですが、しかし場合によっては、話された内容が具体的にどのような言葉としてグラフィックにどう反映されたのかということが、対話の方向性を決定づけてしまうことがあります。
波止場てつがくカフェに参加されるという場合には、是非「ファシリテーション・グラフィック」を意識しながらご発言いただければと思います。
Q.なんで「カフェ」ってつけてるの?
ところで「波止場てつがくカフェ」が飲食店ではないということは既に申し上げましたが、実は「カフェ」を名乗っているのには、ちょっとだけ意味があります。
それは、日常の役割関係が解除された場所でありたい、ということです。
私たちは通常、何らかの役割関係の中で生きています。
お父さんだったり、お母さんだったり。
お店に行けばお客さん、対応してくれる人は店員さん。
しかしその店員さんも、仕事が終わって他のお店に行くけばお客さんです。
単に友達同士だったとしても、年齢の違い性格など、私たちはその都度、特定の役割関係の中にあると言えます。
波止場てつがくカフェの対話においては、そのような役割関係をリセットしたいのです。
なぜなら、役割関係の制約がある場所では、私たちは対等に、そして自由に話をすることができないからです。
前に、てつがくカフェにおける対話の目的は、私達の日常の「当たり前」を根源的に問い直すことであると述べました。
しかし、私たちの日常は、既に「意味」を与えられた言葉でがんじがらめの世界である、とも言えます。ただでさえ問い返すのが難しいい「意味の世界」。そこに社会的役割関係という制約が加わるのだとしたら、いよいよ対話は困難なものになってしまします。
日常の「当たり前」を問い直すには、私たち自身が自由に話すことができなくてはいけません。
そして「自由に話す」ことが実現されるには、日常の役割関係が充分に解除され、お互いが対等に向き合うことができる「対等な空間」でしか成り立たないものだと考えます。
職場でもない。学校でもない。家庭でもなければ、友達の家でもない。
まったく見知らぬ者同士が、まったく見知らぬ関係のまま、出会う場所。
「てつがくカフェ」の「カフェ」には、そのような意味が込められています。
Q.どうして名前を呼んじゃいけないの?
たとえ親子であろうと、恋人同士であろうと、友人同士であろうと。
波止場てつがくカフェでは、対話の最中において相手を名前で呼ぶことをご遠慮いただいています。
また同じように、ご自身も名前を名乗らないことをお願いしております。
私たちは通常、何らかの役割関係の中で生きています。
そうした関係を解除し、自由で、対等な空間をつくることが、対話をはじめる際には必要です。
私達の日常の「当たり前」を根源的に問い直すために。
その人の「属性」ではなく、話すことの「内容」に向き合うために。
私たちは、名なし=“アノニマス”として対話にのぞむ必要があると考えます。
よって対話の間は、例えば「あちらの方」「こちらの方」「先ほどの方」などというような具合で相手の方をお呼び頂くよう、お願いしております。
何卒ご理解いただきたく、お願い申し上げます。
Q.なんかコツとかないの?
波止場てつがくカフェの目的は、相手と対話する中で、私達の日常の「当たり前」を根源的に問い直すことにあります。
物事の根本にさかのぼって考えるためには、自分自身を一旦、日常の世界から「引き剥がす」必要があります。「あたり前」を前提とせず、「“そもそも”それがどういうことなのか」を意識してお話しください。
また、「こんなの聞くのヘンじゃないかな」などと思うようなことでも、どうぞ安心してお話しください。あなたのその“気付き”が、私たちの日常に潜む「てつがくの扉」の鍵になるかもしれません。どうぞ、ご遠慮なさらずにお話しいただければと思います。
Q.哲学のこと知らないけど、大丈夫?
どうぞご心配なさらないで下さい。「哲学の知識」は、一切必要ありません。また対話は専門用語を用いたりせず、日常私たちが用いる言葉を使って進めて参ります。
言葉が難しいと感じるときはえてして、それを指摘された方だけでなく他の参加者の方も、その意味について充分に認識が及んでいないとう場合が多くあります。
言葉の意味が充分に理解され、共有されていない常態のままでは、対話は実りあるものになりませんし、問いをたてることも困難です。
もしわからないと感じる言葉がありましたら、是非ご質問ください。
Q.でも、やっぱり知ってるほうがいいんでしょ?
「哲学」に詳しいということだけでなく、様々なことをよく知っている方はおられると思います。
また、職業的専門知識や読書、スポーツなどを通じた運動についての技能などなど。人の経験は千差万別ですし、それぞれお詳しいということも、よく知らないということもあるかと思います。
波止場てつがくカフェでは、お名前を名乗ることをご遠慮いただいてはおりますが、それは何も、それぞれのご経験などについてのお話しをとがめるものではございません。
是非、ご自身のお考えを説明するのに必要な範囲で、お持ちの知識やご経験についてのお話をしていただきたいと思います。
それぞれの知識や経験を充分に共有させていただくことで、充実した対話が実現されるのではないかと考えます。
大事なことは、自分以外の「誰か」の考えに依るのではなく、自分の「血」のかよった言葉で考え、話すということです。
専門的であると感じた言葉は、ファシリテーターからご説明を頂くよう働きかけます。
また是非、ご自身でもご質問いただければと存じます。
Q.何かルールとかあるの?
ひとつだけマナーとしてお願いしたいことがあります。それは、相手の話にじっくりと耳を傾ける、ということです。
人にはそれぞれ、「話しのリズム」があります。
発話のスピード。言葉のよどみ。抑揚。戸惑い。
波止場てつがくカフェの目的は、相手と対話する中で、私達の日常の「当たり前」を根源的に問い直すことにあります。
そのためには、相手がどのようなことを言っているのか。自分の思い込みや前提を排して、じっくりと聞くという姿勢が肝要です。
そしてそれは、実はなかなか簡単なことではありません。
普段はなかなか、誰かの話をじっくり聞く時間がないという方も多いかと思います。
是非対話の最中は、ご自身の言葉が“起き上がってくる”のをグッと堪えて、相手のペースを尊重し、話にじっくりと耳を傾けていただきたく存じます。
Q.「対話」って、楽しいの?
「対話」が楽しいかどうか…どうでしょうか。もしかしたら、対話は楽しいとは言えないかもしれない、とも思います(笑)
例えば、なかなかはっきりと言葉にすることができないような感情や考え・感じ方などを前にしたとき、大変にもどかしいと感じるときがありますし、苦しいと思うこともあります。
そもそも全然知らない者同士が、相手の話をイチからじっくりと聞くというのは、忍耐が必要なことでもあると思います。
また対話の場が、いつも活発に言葉が飛び交う場所であるとは限りません。なかなか言葉を発することができなくて、沈黙が支配する時間が続くということもあります。
しかしそれでも、私達の日常の「当たり前」を根源的に問い直すことにつながるような「何か」感じられたときの解放感は、とても素晴らしいものだと感じます。
また、その「気付き」を参加した誰かと一緒に確認すること。あるいは、相手と自分の感じ方・考え方がどのように違うのかをお互いに確認することにも、大変な充足感を覚えます。これはもしかしたら、相手と<共に>考えるということによってもたらされるものなのかもしれません。
波止場てつがくカフェでは、<対話の場>を、より充実したものとして実現するために、3つの運営指針を設けております。
Q.反論しちゃいけないの?
そんなことはありません。相手方の考えについての違和や不同意の表明、批判など、自由にしていただいてけっこうです。
しかし、よくご承知おきいただきたいのは、てつがくカフェは、私達の日常の「当たり前」を問い直す根源的な「問い」を探求する場であって、物事の是非を論じたり、善悪の裁定を下す場ではないということです。
批判や反論も、この目的を追究する限りで必要なことであると考えます。
また、対話にのぞむにあたっては、相手の考えに性急な評価を下すのではなく、まずはじっくりとその方の話す内容に耳を傾ける姿勢を第一にしていただきたいと考えています。
Q.なんで「波止場」なの?
そうですよね。確かに「海」を感じさせる要素は、あまり見当たらないかもしれません(笑)
波戸場というのは、端的に船着場のことです。
自動車や鉄道が発達する前は、海だけではない、大小様々な河川が交通の要となっていました。
人は波止場で交易をし、市場を開き、労働に励み、あるいはアブラを売ったでしょう。ある時は人と交わり、またある時は待ち人のことを考えながら。
波止場は生活の場であると共に、交流の場としてありました。
そして何より、波止場は“対話の場”であったと思うのです。
波止場てつがくカフェの目的は、私達の日常の「当たり前」を根源的に問い直す「問い」を、<対話>をする中で見出してゆくことです。
現代では、例えば仕事をする「労働の世界」と、帰って食事をしたり体を休める「生活の世界」は、はっきりと分けられていることがほとんどだと思います。
しかし、「日常」というものは、まさに私たちの生活世界のあらゆるところに広がっています。
もしもてつがくカフェが、例えばそうした「労働の世界」や「生活の世界」といったものと同じように「対話をする世界」として分けられてしまったらどうでしょうか?
私たちは、そうした空間の区分に関わらずに広がっている“日常の「当たり前」”を問い直すことが難しくなってしまうのではないでしょうか?
私達の日常の「当たり前」を根源的に問い直す―。そのために波止場てつがくカフェは、対話の空間が、まさに私たちの<日常>の只中に設置されるべきであると考えました。
そのような思いを、私たちは<波止場>という言葉に込めました。
そして何より、水というのは「対話」を連想させるものだとは思いませんでしょうか?
水を覗けば、そこに自分の姿が移っているかもしれません。
あるいは、夜の水辺はどこまでも暗く、大きく、恐怖さえ感じさせる、不気味な存在のようにも感じられます。
自分の近くにありながら、自分の思うようにはならない。
莫大無辺を感じさせる、圧倒的存在。
そして、そんな「大なる水辺」を前にちょっとだけ。もはや水中に没したように見えながらも、ささやかに突き出している場所。
陸と水の間で。人がおびえながらも、踏み出してゆく場所。
そんなイメージを、自分たちの開いていく対話の空間に添えたい。
波止場てつがくカフェとは、そのような試みでありたいと思っています。
★運営指針~<対話の場>の実現のために★
波止場てつがくカフェは、参加される方がみな自由に、
のびのびと<対話>をすることができるよう、
次の3つの要素を意識しながら、その実現のために取り組みを行っております。
1、対等性
対話に参加するひとり一人が対等な存在として、
誰もが敬意と尊厳をもって接せられなければいけないということ
2、安全性
たとえどんな考え方を表明しても処罰されたり、
危害を加えられたり、排除されたりしない空間であるということ
3、自己変容可能性
人の考え方は変わりうるということを受容し、
自己が変容していくことをおそれず受け入れること